親鸞聖人とは?浄土真宗の開祖

親鸞聖人とは

 

親鸞聖人は、鎌倉時代前期から中期にかけての仏教家で、浄土真宗の宗祖です。

 

 

誕生から出家

浄土真宗の開祖である親鸞聖人は、平安時代の末期1173年に、現在の京都市伏見区日野で皇太后宮大進(宮内庁の皇太后のお世話をする役人)の長男として誕生しました。

9歳の時に青蓮院に入り後の天台座主である慈鎮和尚(慈円)のもとで得度し天台宗の僧侶になって出家後、比叡山延暦寺で20年に渡って厳しい修行を積みます。

 

 

法然上人との出会い

しかし、自分の力では悟りを開くことが出来なかった親鸞聖人は29歳の時に比叡山を下り、法然上人を訪ねて、専修念仏の教えに触れ弟子の一人になり、そこで約6年間、法然上人から直接教えを受けます。

 

 

流罪

法然上人の教えはあらゆる人々に救いの道を開き、たくさんの人が念仏の教えに帰依されましたが、興福寺や延暦寺などの既存教団から反感を買うことになり、今までの仏教を軽んじ、世の中を惑わしていると朝廷へ訴えられ、後鳥羽上皇によって法然上人は土佐へ、親鸞聖人は越後へ流罪を命じられます。

 

 

関東での布教

 

5年後、流罪を許された親鸞聖人は関東に移り住み、常陸国(茨城県)を拠点に約20年間布教活動を行います。

またこの頃に主著である「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」を書き始めたとされており、

この教行信証は浄土真宗の根本聖典であり、真宗十派(真宗教団連合)では、親鸞聖人が教行信証を書いたことをもって開宗とし、草稿本が完成した(1224年)4月15日を記念として、4月15日を「真宗立教開宗記念日」と定めています。

 

帰京から入滅

 

親鸞聖人は62、3歳の頃に帰京し、念仏の布教活動とともに執筆活動にも力を入れます。「浄土和讃」「高僧和讃」「正像末和讃」のいわゆる三帖和讃の撰述を行い、75歳の頃に「教行信証」を完成させたとされています。

そして1262年11月28日、親鸞聖人が90歳の時に入滅されます。

 

報恩講・坂東節

 

浄土真宗では親鸞聖人の祥月命日である11月28日に「報恩講」という宗祖に対する報恩感謝のための法要を行いますが、この報恩講は浄土真宗で最も重要な法要の一つとされています。

また、親鸞聖人が亡くなられたときに、親鸞聖人のお墓には関東からもたくさんの弟子たちが参拝し、親鸞聖人を偲んで念仏を唱えた姿が、のちの坂東節になったとされています。

 

肉食・妻帯

 

親鸞聖人がそれまでの仏教家と日常生活において大きく違うことは、公然と肉食や妻帯を認めたことです。

それまでの仏教は、密教に代表されるように、きびしい修行によって欲望や煩悩を断ち切ることによって悟りを得られるというものが主流だったので僧侶の妻帯は禁止されており、また肉食も仏教の戒律で禁止された殺生罪であり、戒律を犯す行為でした。

このような状況で、肉食・妻帯を公言することは当時の情勢ではまさに命懸けの行為であり、当然激しい非難を受けます。

このような状況で親鸞聖人があえて公言したのは、自分の欲望に従ったわけではなく、「仏教は厳しい修行を行った人だけが救われるのではなく、すべての人々がありのままで平等に救われるのが本当の仏教の教えである」ということ身をもって実践されたわけです。

 

 

親鸞聖人の念仏の教えは、広く庶民に浸透し、現在では浄土真宗は日本最大の宗派になりました。