沢庵 宗彭(沢庵和尚)

沢庵和尚は安土桃山時代から江戸時代前期にかけての臨済宗の僧侶です。書画・詩文に通じ、茶の湯(茶道)にも親しみ、また多くの墨跡を残しており、一般的にダイコンの「沢庵漬け」の考案者と言われています。

 

沢庵和尚

 

沢庵和尚は1573年、但馬国出石(現兵庫県豊岡市)に生まれ、10歳で出家します。22歳の時に上京して大徳寺に入り、37歳の時に大徳寺の住持に出世しましたが、名利を求めない沢庵和尚は3日で去ります。

その後、48歳の時に郷里の出石に帰り、投淵軒という庵をたてて隠棲生活に入ります。

 

紫衣事件と流罪

 

江戸幕府が成立すると「寺院諸法度」などによりお寺への締め付けが厳しくなります。特に大徳寺のような有力な寺院については、「禁中並公家諸法度」によって朝廷との関係を弱めるための規制もかけられました。これによって、もともと天皇の詔で決まっていた大徳寺の住持職を江戸幕府が決めるとされ、また天皇から賜る「紫衣(しえ)」の着用を幕府が認めた者にのみ限ることなどが定められました。

ちなみに「紫衣」とは紫色の法衣や袈裟のことで、古くから宗派を問わず高い徳を積んだ僧侶が朝廷から賜ったもので、僧侶の尊さを表す物であると同時に、朝廷にとっては収入源の一つでもありました。

 

 

規制をかけたにもかかわらず、後水尾天皇が幕府の許可なく十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えたために、幕府は法度違反として紫衣を取り上げるように命じました。

これに反発した沢庵和尚は上京し反対運動を行いましたが、この運動が幕府の命令に反対するものとして罪に問われ、出羽国に流罪とされました。

 

 

3年後特赦が出された後、品川の東海寺の創建に協力し、73歳で亡くなります。辞世の偈をは「夢」だったそうです。

 

人物像

 

 

沢庵和尚は当時の代表的禅僧として知られています。

沢庵和尚は、受け答えも当意即妙で、禅の教えを身近なものに例えて教授するなど、その話が魅力的であったこともあり、多くの人々から慕われ、徳川家光を始め、多くの大名や貴族からの帰依を受けていますが、沢庵和尚自身は名利を求めない枯淡の禅風を崩すことはなく、あくまで自らは一禅僧に過ぎないといっています。

沢庵和尚は弟子を取らず、自身の禅を自分一代で断絶させており、嗣法を徳川家光や後水尾上皇から求められても拒否しました。自身の禅を継いだと称する者は法賊であるとまで言っていたそうです。

 

剣禅一味(剣禅一如)

 

また沢庵和尚は柳生宗矩の求めに応じ、禅の心をもって武道の極意を解いた最初の書物である『不動智神妙録』を記し、剣禅一味(剣禅一如)の境地を解きました。なお、柳生宗矩とは若い頃から交流があり、時には諫言し、時には頼るなど、その親交は深いものがあったそうです。また宗矩の息子である柳生十兵衛からも慕われ、こちらにもいろいろ教授したといわれています。

 

 

 

 

沢庵漬け

 

ダイコンの漬物であるいわゆる沢庵漬けは沢庵和尚が考えたといわれており、関西で広く親しまれていたものを沢庵和尚が江戸に広めたともいわれています。

一つの説として、徳川家光が東海寺に沢庵和尚を訪れた際にダイコンのたくわえ漬を出したところ、家光がとても気に入って、「たくわえ漬にあらず沢庵漬なり」と命名したと伝えられていますが、根拠は定かではありません。

 

 

沢庵和尚は、まっすぐで信念をもった、まさに禅の心そのもののような人です。なにせ流罪を命じた徳川家光ですら沢庵和尚に帰依するくらいですからね。まさに名僧だったのではないでしょうか。