仏壇の起源

仏壇の原型は奈良県の法隆寺にある玉虫厨子(たまむしのずし)といわれていますが、現在普及している仏壇は江戸時代の初期には製造されていたとされています。

法隆寺 玉虫厨子

 

ではなぜ仏壇は生まれたのでしょうか。

 

佛壇の出現

 

佛壇(≠仏壇)という言葉は2世紀から3世紀にインドの僧侶である龍樹が書いた「大智度論(だいちどろん)」に出てくるものがもっとも古いものの一つとされています。

このなかで、佛壇とは煩悩から解放された彼岸にある状態のことで、それに対し煩悩にとらわれて此岸にいる状態を魔壇と呼んでいます。そして佛壇とはお布施である、と説明されており、お寺にお布施をする者という意味で「檀家」の語源となっています。

 

小型寺院としての仏壇

 

仏壇はどのようにして現在の形に至ったのでしょう。仏壇は寺院や持仏堂を小型化したものといわれています。

江戸時代以前は貴族や武士の間で持仏堂という形式で信仰の場が持たれてきました。

平安時代の宇治の平等院や鹿苑寺(いわゆる金閣寺)などはその時代の権力者によって建てられた豪華な持仏堂で、こうした寺院が仏壇の源流であり、現在ある高級仏壇の豪華さに通じるものがあります。

 

宇治 平等院

 

鹿苑寺金閣

 

江戸時代初期、真宗の道場は寺院に分化していきました。

蓮如上人は、当時の農村で信仰を中心とした活動を行うグループ(講)を組織し、その活動拠点が道場でした。

道場には絵像や宗祖の御真影が掛けられ、そこに人々が集まって信仰について語り合いました。

このような道場が江戸時代に大量に寺院化しましたが、もともと道場は人々の家を持ち回りで使用したり、また広さも4畳半の仏間のようなものであったりと、決して大きなものばかりではなかったそうで、「小さな寺院」である仏壇の源流であることは間違いないです。

 

滋賀県長浜市 西徳寺 初期道場の原型が残る

 

 

仏壇。それは究極の在家主義であり、仏壇を通して本山や阿弥陀如来と向き合うという文化は仏壇の形成に大きな影響を与えたといえますね。