一休禅師
日本の仏教において、有名な僧侶といえば、各宗派の開祖さまをはじめたくさんの人物がいらっしゃいますが、庶民に親しまれたお坊さんとして真っ先に挙げられるのは「一休さん」こと一休禅師ではないかと思います。筆者にとっても幼いころに観たテレビアニメやドラマなどで、「とんち」で難問を解決する姿は、とても痛快だった記憶があります。
一休禅師
一休禅師(一休宗純)は、室町時代の臨済宗大徳寺派の僧侶で、京都出身で後小松天皇の落胤(私生児)で母は藤原氏の一族であると言われています。母親は子供が政争に巻き込まれないようにと、6歳で京都の安国寺に出家させ、そこで「周建」という名前を与えられて成長とともに才気を育みます。その後、17歳で「宗純」と改め、22歳の時に大徳寺の高僧に弟子入りし「一休」の道号を授かります。
さて、一休さんといえば「とんち」そしてさまざまな「奇行伝説」が伝えられていますが、幼少期の一休さんは「とんち小僧」だったという話は、史実ではなく、江戸時代の読み物「一休咄(いっきゅうばなし)」で広がったとされています。「このはしわたるべからず」や「屏風の中の虎」の話など史実ではないにしろ一休さんが人とは違う視点を持った人物だったということの象徴として描かれたのかな、とも思いますね。
数々の奇行については、重要な文書を燃やしたり、木刀を持ち歩いたり、ある時には杖の頭にドクロを乗せて歩いたりと、それだけ聞けばただの「ヤバい人」なんですが(笑)、これは形式主義に陥った当時の禅宗を強く批判していたと言われています。
一休禅師は茶人や能楽師、連歌師ら多くの文化人と交流し、漢詩集「狂雲集」などを残しました。
茶道の源流である「侘び茶」の創始者「村田珠光」は一休禅師の禅弟子として学び、仏の教えを侘び茶に取り入れました。
「侘び茶」は、従来の派手で形式中心の「大名茶」とはちがい、「小さな四帖半の茶室の中では、人に身分など関係なく、そこにあるのは亭主のもてなしの心だけ、この心が仏である」としました。これは一休から学んだ「仏は心の中にある」であり、珠光は仏さまの教えをお経を通してではなく、日常生活(茶の湯)を通して具現化し、やがてこの思想は千利休へと受け継がれていきます。
一休禅師は88歳で京都府京田辺市の酬恩庵で亡くなられましたが、禅宗を民衆に広めたという点でとても大きな功績を残したと思います。