浄土真宗(本願寺)はなぜ西と東に分かれたのか?
浄土真宗の宗派のうち特に大きな宗派である浄土真宗本願寺派と真宗大谷派。
これらの本山は西本願寺(正式名:龍谷山本願寺)と東本願寺(正式名:真宗本廟)ですが、なぜ本願寺は西と東に分かれたのでしょう?
石山本願寺と織田信長
本願寺分裂のきっかけは戦国時代にまでさかのぼります。
戦乱の世の中、一向一揆と呼ばれる浄土真宗本願寺教団(一向宗)の信徒たちによる権力に対する抵抗運動が各地で起こっていました。
本願寺の前身である石山本願寺は、室町時代に蓮如上人によって現在の大阪城のある場所に建立され(建立当時は石山御坊)、後継者の実如上人の時に武装化していき、顕如上人の時代には、各地の戦国大名と同盟を結び一大勢力を誇っていました。
これに立ちはだかったのが、織田信長です。信長は石山本願寺の明け渡しを要求し、これを拒否した顕如上人は全国の門徒衆に対して本願寺防衛のための檄を飛ばし打倒織田信長を決起しました。
これが世にいう石山合戦の始まりです。
信長は石山本願寺と10年以上も戦争を続けていましたが、武力によって攻め落とすことはできず和睦の申し入れをしました。
一方、本願寺内部では和睦派と抗戦派で真っ二つに意見が分かれていました。
顕如上人は和睦を受け入れましたが、抗戦派である長男の教如上人は、最後まで抵抗しました。
結局は信長に石山本願寺を明け渡すのですが、その直後に火を放ち、石山本願寺は焼失してしまいます。
親子の確執と徳川家康の政治利用
石山本願寺焼失後、顕如上人と教如上人の親子の溝は埋まることはありませんでした。顕如上人は本願寺の宗主を三男の准如上人にゆずります。
その後豊臣秀吉の時代になり、本願寺の再興を許されて京都の堀川に建てられたのが現在の西本願寺となります。
さらに時が流れ、徳川家康の時代になりました。家康は本願寺の巨大な勢力を分断するために、不満のたまっていた教如上人に目を付け、西本願寺のすぐ近くの烏丸に寺地を寄進して東本願寺を建てさせました。
このことにより本願寺教団は西と東に分裂することになります。
しかしもとをたどれば浄土真宗本願寺派と真宗大谷派は同じ教団です。
現在では親鸞聖人の教えを引き継ぐ真宗十派で結成された真宗教団連合に両派とも所属しており、ともに親鸞聖人の教えを伝えるべく協力体制をとっています。