「鑑真和上」とはどんな人物か?6度目の渡航でようやく日本にたどり着き日本の仏教の発展に尽くした唐の僧侶
鑑真和上
鑑真和上(がんじんわじょう・がんじんおしょう)は唐の僧侶で奈良時代に帰化し日本の律宗の開祖となった人物です。
律宗は、戒律の研究と実践を行う仏教の宗派で、僧侶になるためには戒律を遵守する誓い(授戒)をしなければなりませんでしたが、授戒を行うためには10人以上の僧侶の前で儀式を行わなければなりませんでした。
当時の日本には私度僧と呼ばれる自分で出家を宣言した僧侶が多かったために、僧侶に位を与える制度を普及させようと聖武天皇は授戒のできる僧侶を探しており、授戒のできる僧侶を日本に招くために栄叡と普照という二人の僧侶を遣唐使船に乗せて中国に送ります。
栄叡と普照は、戒律の僧として高名だった鑑真和上を訪れ、10人の授戒できる僧侶を日本に連れて来てほしいとお願いします。
鑑真和上は、日本に渡りたい者はいるかと、弟子に問いかけましたが、当時の船旅は3割の確率で命を落とす命がけの旅で、危険を冒してまで日本に渡りたいという者はいませんでした。
そこで鑑真和上は自ら日本に渡ることを決意し、それを聞いた21人の弟子たちもついていくことになりました。
その後、5度の渡海に失敗し6度目の渡海でようやく日本にたどり着きます。
この時最初に日本に渡ると決めてから10年以上が経ち、苦労を重ねたために両目は失明していました。
日本にたどり着いた鑑真和上は、東大寺大仏殿に戒壇を築き400人以上の僧侶に授戒を行います。これにより授戒を受けなければ僧侶になることができなくなり、日本における僧侶の資格制度の基礎ができました。
この功績により鑑真和上は大和上に任じられ、唐招提寺を創建しここにも戒壇を設置して若い僧侶たちに戒律を教え、76歳でその生涯を閉じます。
5度も失敗し、失明してまで日本に戒律を伝えるために来てくれた鑑真和上。
鑑真和上が戒律を伝えてくれたおかげで、現在の日本の仏教があると言っても過言ではありませんね。