室町時代・北山文化の代表的な寺院、金閣寺とは?

京都観光に訪れた際に行ってみたい場所の一つに金閣寺が挙げられますが、金箔に覆われた外観の美しさについてばかり大きく取り上げられ、その歴史や成り立ちについてはあまり知らないという人は少なくないのではないのでしょうか。今回はそんな金閣寺の歴史について書いていきたいと思います。

 

正式名称は鹿苑寺

 

金閣寺は、正式名称は鹿苑寺(ろくおんじ)といい、山号は北山(ほくざん)、臨済宗相国寺派の寺院です。私たちが金閣寺をイメージするときに思い浮かべる金色の建物(金閣)は舎利殿で、これを含めた全体を金閣寺と呼んでいます。

金閣寺は、鎌倉時代に建てられた公家の領地をを室町幕府の三代将軍足利義満が譲り受けて「北山山荘」といわれる大規模な邸宅に増改築したのが始まりとされています。

 

 

足利義満の死後、遺言によって北山山荘は禅寺となり義満の法名である鹿苑院から文字を借りて鹿苑寺と名付けられました。

ちなみに鹿苑は、お釈迦さまが悟りを開いたあと、はじめて説法を行った場所である鹿野苑(ろくやおん)に由来しています。

 

 

北山文化の代表

 

当時は、それまで南朝と北朝に分かれていた朝廷が統一され、幕府と朝廷が京都に置かれ武家の文化と公家の文化が融合していき、さらに禅宗の文化が融合されたものを北山文化といいます。

北山文化は3つの文化が融合した中でも特に華やかな公家の文化の影響を受けており、金閣寺がその代表例というわけです。

金閣寺の舎利殿(金閣)は、三層構造になっており第1層は寝殿造(公家文化)、第2層は書院造(武家文化)、第3層は仏堂風造(禅宗様)になっており、異なる三様式で作られた建物は、当時は非常に斬新なものだったそうです。

舎利殿のほとりには鏡湖池を中心とした庭園があり、池の水面に映る逆さ金閣は一度は見てみたいものです。

 

 

放火による焼失と再建、世界遺産登録

 

金閣寺の舎利殿は1950年に当時21歳の学僧による放火によって全焼しましたが、現在の建物は1955年に再建されました。

 

 

しかし急ピッチで再建を進めたために再建後10年で金箔が剥落して下地の漆が見えるようになり、その漆が紫外線で劣化するようになったために昭和61年から昭和62年にかけて「昭和の大修復」が行われました。この時にかかった総工費は7億4千万円で、通常の5倍の厚さの金箔を20万枚使用したそうです。

そして1994年には古都京都の文化財としてユネスコ世界遺産に登録されて、日本の代表的な観光地として国内外を問わずたくさんの人々が訪れています。